岡田紅陽、本名・岡田賢次郎は明治28年(1895)新潟県中漁沼群中条村(現在の十日町市)に父・龍松、母・きし、の3男として生まれた。曾祖祖父の喜兵衛、祖父の栄蔵、父の龍松とも雅号を持つ山水画などの名手で、父の龍松は、衆議院議員・兄正平も新潟県の初代民選知事に当選するなど学術豊かな一家の中で育ちました。
幼少年時代を北国の大自然の中で自由闊達に育ち、成長した紅陽は、大正3年(1914)4月、早稲田大学予科に入学し、学業の傍ら友人からカメラを借り初めて富士山に接して以来、その神々しさにうたれ、その時の深い感激から次第にその魅力にとりこになっていきます。
紅陽が初めて忍野村を訪れたのは大正5年(1916)といわれ、まだ電灯のないのどかな美しい自然の景観と雄大な「忍野富士」に出会って感動して以来、忍野村を拠点として憧れの富士山を撮り続けることになります。当時はまだ風景を目的に撮影するプロ写真家はほとんど存在しておらず、紅陽は自ら独自の道を切り拓いていかなければなりませんでした。
富士山を撮影する一方、東京付(現在の東京都)の嘱託写真師として、大正12年の関東大震災の被災写真を命がけで撮影するなど、貴重な報道写真の分野でも活躍しました。 |
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